老婆
会社の若い人たちからボウリングに誘われた。
めずらしいことではある(事実それ以降一度も誘われたことはない)。
会社からボウリング場まで自転車で15分ほどのものである。右手に海を見ながら広い道路を行くとやがてトンネルをくぐる。トンネルの手前は下水処理場でそのあたりには民家がない。対向車がスモールライトを点灯する刻限になりかかっていた。
自転車で歩道を走っていくと向こうから一人の老婆がとぼとぼと歩いてくる。たそがれ時で表情は見えなかったが車道を歩いている。いったんは通り過ぎたが少し異常なものを感じて引き返した。
「どうしたんかの」
と問い掛けるとなんだかもごもごと要領を得ない。が、ひどく疲れている様子である。歩道と車道の間に柵があって私は歩道側、老婆は車道側にいる。「足が痛うてな、えーように歩かん」という。車が通るので危なくてしかたがない。
「その先に歩道へ上がれるところがあるから、がんばって歩きねえ」と励ましながら歩かせてやっとのことで歩道へ引き上げた。
ぽつぽつと話を聞く。
「わしはなあ、娘が一緒に暮らそうちゅうて、大阪の方から来たんじゃが、こっちには友達もおらん。今日は友達が汽車に乗ってくるいうから駅まで迎えにいったんじゃが、会えなんだ。それで駅から歩いてきたんじゃが、迷うてしまった。」という。
楽しみにしていた友達と会えず、がっかりして歩き出したのだろうか。それにしても駅からここまで3キロはある。日は暮れて来るし、足は痛くなるしで途方にくれていた様子である。
「ばあちゃんそれでどうするつもりなんかなあ。」
「家へ帰るんじゃ。ここはどのへんかいのう。」
「ここは藤井じゃ。ばあちゃんのうちてどこじゃ?」
「日比のほうじゃ」
「そりゃ遠いなあ。歩いては帰れんぞ。」
老婆は悲しそうな顔をしながらも、くどくどと昔のことなどを話すばかりでらちがあかない。そのうちあきらめがついたのか、手帳を出してある番号を指し、「ここへ電話してくれたら娘がいると思う」と言った。
「よっしゃ。ちょっと電話して来よう。待っててな。」
と言って、あたりを見回すと、向かいにリネンの集配所がある。事務室へお邪魔してこれこれこういうわけなんだが電話を貸してくれというと気持ち良く電話を使わせてくれた。
指定された電話番号へかけると男の子が出た。
「お宅のおばあちゃんだと思うんだが・・」というと、返事をせずに「おばあちゃん!」と押し殺したような声で言った。すぐに娘さんらしい人が出た。 たぶん心配していたのであろう。これから迎えに来るという。場所をていねいに教えてリネン工場に礼を言って老婆のところにもどった。
老婆の昔話を聞いているうちにどんどん日が暮れてきた。車は通るが人はあまり通らないような場所である。歩道の縁石に二人で腰をおろしてぼそぼそと話をしているうちに、ようやく迎えの車が来た。
娘さんという人は普通の主婦であった。やさしそうな人である。すぐにつれて帰ってもらう。
つれあいに先立たれたのか、大阪の生活をあきらめ、友達と分かれてやさしい娘のところへ身を寄せたわけであろう。老婆の出身はこの町である。だが、 老婆が迷った道は昔なかった道であった。変貌していく町、やさしいけれども家庭を持って忙しい娘、会えなかった友達、暮れていく自動車道路。老婆の孤独感 が伝染して来そうである。
ボウリング場へたどりつくとすでにゲームは始まっていた。すぐにレーンに上がって投げ始める。遊ぶ仲間がいるのは貴重である。だが、歳をとると遊びにもついていけなくなる。やがてあの老婆のように、孤独な時間を過ごさねばならないときが来るだろうか。