SCOのふしぎ(その8) 規約がなくても大丈夫?

2015年05月12日 22:42

前章、「SCOのふしぎ(その7)安上がりに済ますには」、で触れたように、SCOには規約というものがない。前章ではSCOの運営を 長屋の花見に たとえた。長屋の花見に規約がないのはまあ普通だろう、と、言ってしまえばこの章はそれで終わりであるが、それではあんまり無愛想だからもう少し詳しく書 く。

正確に言うと、SCOには成文化された規約はないが、不文律はある。そのもっとも重要な部分は、「社会人として責任のある行動をとるこ と」である。 ふたたび「長屋の花見」にたとえれば、番茶を飲んで酔っ払ったふりをしたり、たくあんを「おいしい卵焼きですな」と言えるようにならなければならない。

SCOでは、たとえ団員が中学生であっても社会人として扱う。したがって入団資格を問われれば、「立派な社会人であること」と答える。 へただろう が、楽器がボロだろうが、そんなことはどうでも良い。練習への参加率も・・・、まあ、どうでもよい。SCOという組織が破綻しないように自らの行動を律す ることができればそれで十分である。

それではわかりにくい、という読者もおられるであろうから、逆に「どう行動すればSCOが破綻を招くか」、ということを考えてみよう。

SCOのような組織で最も問題になるのは、思いやりのなさである。たとえば、「あいつは練習にちっとも出てこない。あいつのせいで演奏 がうまくいか ない。」、とか「あいつはへただ。やめさせろ。」とかいう人がいたとしよう。その考え方がすなわち「思いやりのなさ」である。そのような行動は団員相互の 信頼を傷つけ、練習をつまらないものにし、最終的にはなくてもよかった規約を作らなければならなくなる。規約を作ればそれを書き物にして周知させ、守ら せ、守らないものは処罰しなければならなくなる。余計な仕事はいくらでも増えていく。思いやりさえあればそれらはすべてやらなくても良いのである。

次のようにすればよい。「それなりの理由があるのだ」と信じるのである。

たとえばアマチュアが仕事の都合で練習を欠席するのはやむを得まい。皆それぞれの仕事においてはプロなのだ。子供が熱を出した、とか、 親類の葬式だ とかもあるだろう。それをいちいち問わなくても良いではないか。「練習に出られないからには事情がある」と信じてしまえばすべてうまく回るのである。

同様に、弾けないプレイヤーには「弾けないからには事情がある」と考えよう。だいたいからして、弾けないくせに、のこのことオーケスト ラに参加する ようなプレイヤーはアマチュアの宝である。そのような人の情熱はどんなに評価しても評価しすぎることはないのであって、多少のアンサンブル上の迷惑は十分 帳消しになるのである。そのことはさておいても、弾けない理由はアマチュアには必ずあるだろう。あると信ずることが大切である。

人はおよそ他人の背負っている荷物の重さはわからないものである。軽々と背負っているように見える荷物でも、実は重いのかもしれない。 それでも楽しそうに笑っている人もいる。見かけで判断しないことが思いやりを保つ秘訣である。

本題にもどる。SCOには成文化された規約はないが、「思いやりのある社会人として行動すること」という不文律はある。それで十分だと思わないか?

 

 

***補足***

当エッセイ執筆当時は成文化された規約は存在しませんでしたが、2014年に規約を制定しました。

岡山芸術祭に参加するには、成文化された規約が必要だったためです。