思い出のブラームス

2015年05月07日 23:18
2014/12/24記

演奏会が済んでからたまった用事を片づけたらもう12月も後半になってしまった。 改めて今年のブラームスを振り返ってみようと思う。

ブラームスの交響曲第三番は「地味」で「難しい」というのが一般の評価のようだけれども、私にとってはとてもすばらしい曲に思えた。巷の評価にひき ずられて、「つまらない曲」と思われてしまうとやる気も失せるというものだろう。練習のときにはできるだけこの曲の良い面、美しい面、楽しい面を強調する ようにしたいと願ったが、はたしてできたかどうか。実際には第一楽章の難しさにかまけて演奏者への語りかけが不充分になってしまったように思う。再びこの 曲をやることはないだろうが、もしもう一度やるようなことがあれば、もっとこの曲の良さを浮き立たせるような練習をしてみたい。

ブラームスの交響曲は確かにわかりやすい曲とは言えない。私にしたところで、単に曲を聴いているだけではなかなかその曲の良さが見えてこなかった。 スコアを読みながら曲を聴いてはじめて「ああすばらしいな」と思ったのが実情である。かみしめてみて初めてそのおいしさがわかる、「するめ」のような曲で ある。

さてこの曲はどこが難しかっただろうか。 まず第一楽章がゆっくり目の6/8拍子であったこともある。この拍子は日本人にとってはわかりにくいものらしい。特にシンコペーションの伴奏パートはとて もやりにくそうだった。この形はモーツアルトなどにも頻繁に出て来る形であるのだが、モーツアルトの場合は2拍子か4拍子が多く、6拍子のシンコペーショ ンの伴奏はまだお目に掛かっていない。そこが違うのかもしれない。

また、古典派の曲なら当然続けて演奏すべき旋律が楽器間のリレーになっている。旋律のここまでがクラリネット、ここからファゴットといった具合である。その上異なったリズムの音が同時に進行し、しかも弱起のリズムとそうでないリズムが混在する。

このような複雑なリズムはブラームス特有のものかと言うとそうではないと思う。バッハの曲など複合的なリズムは日常茶飯事で、だからバッハの曲で落 ちるとなかなか這い上がることができない。ベートーベンの田園の二楽章などもかなり複合リズム的であり、よってわかりにくい。決してブラームスだけがわか りにくいわけではないと自分は思う。

おれはバッハは嫌いだ、とか、ベートーベンはさっぱりわからぬ、などと言うとなんだかクラシックをやっている人としては落第のように思われるのが落 ちだから、そうとは口が裂けても言えないというような雰囲気がある。それでバッハやベートーベンは「嫌い」とは言いにくい。それがブラームスぐらいになる と、「嫌い」と言ってもそう角が立たないので、おおっぴらに「嫌い」と言えてしまうのではないかと実はひそかに思っている。

さて、我々のオーケストラでブラームスの交響曲は一番と三番を演奏した。どちらがわかりやすかったか、というと私にとっては三番の方がわかりやす かった。一番は古典的な曲の作りを継承していて構造も比較的わかりやすいと言われているのであるが、ひとつひとつの音楽の部品の必然性が私には少し希薄に 思えた。その点三番は音楽の部品の位置づけに無理がなく、個々のモチーフが必然性を持って存在しているという思いが強かった。そんな思いもあったせいだろ う。この曲の練習はとても楽しかったし、達成感もあった。演奏者の方々の中には、「ああひたすら疲れた」、と思った方もおられるかもしれない。それは大変 申し訳のないことであるが、この曲ができて良かったと思う人間が「一人はいる」ということに免じてかんべんしていただきたいと思っている。

この曲の練習には演奏者の皆さんが極めて積極的に取り組んでくれたのは事実である。木管の分奏が何度もなされたのはかってないことであった。弦楽器 も人数が増えて厚みのある音が実現した。それにもかかわらず本番直前の練習でうまくいかなくなったところもあったが、それは「より良い演奏をしよう」とし た結果肩に力が入ってしまったということだろうと思う。幸い木村先生のアドバイスで切り抜けることができ、本番はうまくいった。

最後に、本番で起こった事故についても触れておきたい。もしかして正しく弾いていたのに自分が間違えたと思っている方もおられると、それは大変気の 毒な事である。自分は科学技術を本業としている人間であり、およそ技術者は正直でなければいけない、とよく言われる。その性癖から本当の所を申し上げてお く。決して誰かを責めるということではないことをあらかじめお断りしておく。

第四楽章の最後は管楽器の美しいコラールでこの曲を閉じるのであるが、このコラールの出が本番では半小節遅れた。このため、この曲は既定の小節+半 小節の長さになった。私は途中からコラールのメロディーに合わせて振った。この結果、指揮に合わせた方と楽譜通りに演奏した方の間で音の摩擦が生じた。最 終的には皆が指揮に合わせてくれて最後の二小節の終止をきれいに出すことができた。皆さんには感謝である。

さて、聴衆の方の中にこのことに気付いた方がいたか、ということであるが、これまで聞いた限りは一人もおられなかった。複雑な曲であったことがこの点では幸いしたとも言える。

今年は他の曲も大きかったため、全体に負担がかかったことは否めない。その重圧の中でこの美しいブラームスの曲がやれたことは私にとっては大きな成 果であったし、演奏者の方にとってもきっと何か財産が残ることになっただろうと思う。来年の練習を始めた時に「何かが変わった」と思える可能性は高いと信 じている。