古典音楽塗り絵論

2015年05月14日 21:56

(バッハの「二本のバイオリンのための協奏曲」を演奏し、その翌年ティンパニ協奏曲を演奏し、その翌年に記す)

モーツアルト以前の音楽、主にはバロック音楽から古典派の音楽、というのは塗り絵みたいなものだと思う。一応音符という枠はあるけれども、その音符には色がついていなくて、そこに色を付けていくのは演奏者の裁量にまかされている。(もちろん、近代の楽譜だって黒いインクで印刷してあるけれども、ここで言う色とは、音楽の表現のことである。)

一昨年、バッハをやって、実は大変申し訳ないことをしたと思っている。仕事が忙しかったことを言い訳にしてはいるが、私なりの色を塗ることができないままに本番が来てしまった。それで、モノクロの演奏になった。

もう十年以上も前になるが、小曲ばかりやっていた我々が初めてハイドンの交響曲を演奏したときはモノクロやカラーを気にするどころではなかったから、さぞかしモノクロの演奏だったのであろう。しかし、初めて交響曲というものを演奏する、という喜びがモノクロながら輝いていたのではあるまいか。それがだんだん古典、ロマン派から近代の曲を経験するに従って、その喜びが消えて「どうすればよいかわからない」状態になってきた。それがバッハの不完全燃焼につながっていると考えている。

小さいころから私には絵心がなく、塗り絵などは極めて下手であった。たかが塗り絵といえども、色を付けるためには、それなりのアイデアが必要になる。絵の上手な人は塗り絵をやらせてもどこか垢抜けたものにしてしまう。おそらくそういう人たちは、色を塗る戦略があるのだろう。私にはそのようなものがないので、塗り方がいきあたりばったりである。まず赤を塗ってみる。どうもうまくいかないから青を塗ってみる。要するに失敗を修正するだけの作業になる。 これでは美しい塗り絵などできるはずもない。

音楽に色を付けるためには、その楽曲への戦略が必要になるだろう。誰かが真剣にその曲に向き合って、戦略を練る必要がある。

そんなめんどうなことをせずに、有名どころが演奏したものを一から十まで真似をするという手もないわけではない。しかし、それは多くの場合プロの楽団のまねであるから、完璧にまねをするためにはプロと同程度の技量が必要である。それは無理に決まっているから、我々の場合は持てる技量との相談でどうするか決めなければならない。我々にとって良い音楽を作るために、我々独自の戦略がどうしても必要になる。

昨年のティンパニ協奏曲は、ハイドンぐらいの時代の曲である。よって、これには演奏者が色を塗らなければならなかった。幸いか不幸か、この曲には一 般的な色付けの規範がほとんどなく、我々のアイデアで好き勝手に色付けが可能であった。そう思っていろいろ自分なりには知恵を絞ったつもりである。結果は聴けばわかるが、まああんなものであった。それでもバッハのときよりは少しばかり「我々のティンパニ協奏曲」になったのではないかと自己満足をしている。 ごくごく薄い淡彩のようなものではあったが、ちょいと色が付いたといえるのではないかな。