ビオラのこと

2015年05月14日 21:50

実は私は合唱部に所属していたことがある。

私が学んだ大学は小さな大学で、野球部が九人いなかったということもあるくらいだから、おして知るべし。その中に合唱部も吹奏楽部もあった。当然ながら人手不足で、合唱部と吹奏楽部は互いにメンバーを融通しあっていた。私自身も一時はどちらに所属しているのかわからないような時期もあった。

その大学は、入試要綱に、男子であること、と書いてあって(今は書いていない)、合唱といえば男声合唱だったわけだが、あるとき聖路加看護大学(い まから思えば恐れ多いことながら、当時は距離が近いということだけで交流があった。また、重要な要素として、当時は看護大学の学生は全員女子であった)と合同で混声合唱をやった。

曲目は現代の合唱曲である。そこで私は中声部と始めて本格的に出会った。混声のときはバス(私はバスであった)は基音を出すことが多いが、女声が休みのときはバスが二部に分かれて、バスの上(まあバリトンですか)が中声部を歌う。それは私にとってなかなかスリリングで面白い経験だった。

まず、合っているんだか合っていないんだかよくわからないという状況に陥る。そこを練習で音を覚えていくと、今度は合わせがたきを合わせるという不思議な快感を覚える。半信半疑で出した音がスーッと和音に吸収されたりすると、ヤッターという感じになる。もう少し慣れてくると、実は中音部がその場の調性を決めているのだという自負が出てくる。転調のときなど、中声部の役割は非常に大きい。

でまあようやくビオラの話になるわけだが、ビオラのパートほど音の予想がつかないパートもない。そもそも弦の編成は弦楽四部だが、多くの場合和音は三部なんだ。そうするとどこかの音を重ねなければならない。たいがいメロディーとはバッティングしないようにするから、必然的に残りの二音を第二バイオリン、ビオラ、チェロで取り合うことになる。一番立場が弱いのはビオラで、どうしても和声上の無理がかかる。あるときは基音、あるときは第三音というぐあいで声部のなかをあちこちを移動したりもする。音のイメージがわからないとなげくが、それはもっともな話である。

しかし、ハーモニーの変わり目をコントロールしているのは実はビオラだと思う。ひとつの和音から次の和音に移行するときに、その動き出すきっかけを ビオラが作ることが多い。ひとつひとつの音にしても和声上の役割が違う。第五音が来たら小さく弾かなければならない。第三音が来たら低く弾かなければならない。その結果和音がきれいに響いたときがビオリストの面目躍如ということになる。和音構成をよく知っている人は、そこが快感なんだろう。正しいタイミン グで音階上の正確な音を出せばそれでいいというのは、メロディー楽器の人の言うことであって、ビオラの言うべきことではない。和音が響かないからといってビオラの人を責めるのはまあ酷だと思うけれども、そのビオラの面白さをもっと知ってほしいと僕は思う。中間管理職の悲哀もあるけれども、和声のコントロー ラーという重要な役割はビオラのものである。

さて、ビオラの人はよく文句をいう。私たちがせっかく気持ちよくメロディーを弾いていると、たいがい他の楽器とかぶっていると。中音域というのはそういう性格なんで、あんまり自己主張をしない音色が必要になる。それで、ビオラとクラリネットとか、ビオラとファゴットとか、比較的おとなしい音を混ぜて、赤でも黄色でも青でもない、大人の中間色を出そうとするのである。

けれども、ビオラがあんまり活躍しないのは古典派音楽だけのような気もする。近代になってくると、ビオラだけのメロディーとかも出てくる。それはえもいわれぬ独特の音で、成熟した音楽にぴったりとはまる。

合唱部をやめてからは、僕はもっぱらチェロを弾いたから、だいたいわかりやすい基音を弾いていたわけだ。ところがガーシュインの「パリのアメリカ 人」の譜面を見てびっくりした。チェロが和音の中の第三音だか第四音だか第九音だかを弾きまくる。あれは近代の曲だから和音も三声部じゃなくて五声部ぐら いあるのが普通で、それでうちのオーケストラではとってもできないと思ってやめた。

ビオラの人はいつもそういう難しいところを弾いているわけで、だからできないのはしかたがないけれども、いつの日か、美しい和音ができたら、一番の功労者はビオラだと言いたい。